日本編
タイ人には伝わらない・・・かもだけど、日本人には伝わるスポットが三鷹の跨線橋。
こんにちは、うしおです。
昨日も行ってきました!多摩インバウンド協会in三鷹です。
東京の多摩地域にて展開されている地方ブログポータルサイト「たまりば」からスタートした取り組みです。
⇒たまりば
この日は、参加者同士で、東南アジアの方に紹介したい多摩のスポットについてなど、話し合いました。
さすが、皆さん、地元を愛されている方々なので、僕が知らない名称がボンボンと出てきます。
そんな中、シニア代表として参加された方から、ある一つの名称が出てきました。
やっぱり三鷹は「ごせんきょう」だよ。
タイの方にも、「ごせんきょう」を紹介したい。
「ごせんきょう」の夕日は綺麗なんだ。
今から「ごせんきょう」行ってみようか?
みたいな流れになり、せっかくなので「ごせんきょう」という場所を目指して少し街歩きしてみました。
初めて歩く、三鷹の街並みです。
しかしまた、ごせんきょうとは。
一体、ごせんきょうとは、どんな場所なんだろう?
夕日が綺麗な場所。ごせんきょう。。。
あれかな、丘的な場所かな。
ごせんきょう。
うーん。
と思いながら歩いていくと、線路に出てきました。
もうすでに、夕陽の良い時間帯です。
ごせんきょうは、どこか!?
と思いながら歩いていると。
つきました。
こちらが、ごせんきょうです。
一瞬、えっ?となりました。
ん?
っと思いながら横を見てみると、小さな看板を発見。
太宰治が生きたまち三鷹。陸橋(跨線橋)
中央線の上にかかる陸橋に友人を案内することもありました。この陸橋は、1929(昭和4)年に竣工した当時の姿を今も留めています。
⇒太宰ゆかりの場所
いやー、不勉強でした。申し訳ございません。
ここ、三鷹は太宰治の行きたまちだったんですね。
僕がずーっと、ごせんきょうって、何だろうと思っていた場所は、あの太宰治が何度も足を運んでいた場所でした。
あらためまして、こちらが陸橋(跨線橋)です。
三鷹電車庫の跨線橋は俗に陸橋と呼ばれ、広い電車庫をまたぐように作られた便利な橋です。
この橋の歴史は古く、昭和4年に作られました。そのせいか鉄骨むき出しの構造でスマートとはいえませんが、頑丈そのものに作られています。昔は陸橋から武蔵境方面を見ると右の方に畑の中をカーブしていくレールが見え、後で武蔵野競技場線ということを知りました。太宰治もここを訪れたらしく、橋のたもとにたたずむ写真が残っています。
現在は小さな子供が喜ぶ場所として親子連れをよく見かけます。電車庫に沢山並ぶ電車や、陸橋の下を通過する特急電車など子供が喜ぶのは当然です。冬になると赤い夕日に富士山がシルエットに浮び見ていて飽きる事がありません。(撮影・文 三村)
⇒陸橋(三鷹電車庫跨線橋)
この階段は、昔と変わらないそうです。
全ての意味が分かったので(理解が遅くてすみません)、ゆっくりと階段を上ります。
すでに夕日が良い感じです。
地元の方も、陸橋を渡りながら、夕陽を楽しんでいるようです。
そんな、太宰治も愛したであろう跨線橋の夕日がこちらです。
いやー、何とも言えない風情がありますね。
電車庫になっているだけあり、非常に多くの路線が集まっています。
遠くの方には富士山も見えています。
僕は太宰治の作品には詳しくないのですが、人間失格はとても好きです。
良い気分にも、不安な気分にもなる側面をもった夕日は、少なからず作品に影響を与えたのかもしれません。
太宰治の生きたまち、太宰治が見ていた夕日を同じ階段を上って見られたことは非常に良い体験になりました。
とても感慨深かったです。
今回、このような機会を作って頂いた三鷹の皆様に、感謝しています。
ありがとうございます!
でも、
ここは、まだタイ人の観光スポットとしては早いかな?
そんな事を思いながら、三鷹の街を後にしました。
とても良い場所ですね。三鷹のまちは!